先日、東京ステーションギャラリーによる「パロディ、二重の声 ――日本の一九七〇年代前後左右」(会期:2017年2月18日〜4月16日)に行ってきました。
第1部「国産パロディの流行前夜〜季節のポップアートのアイロニー風味〜」、第2部「肥大するパロディ〜複製メディアの噴出に読者参加を添えて〜」、第3部「いわゆるパロディ裁判〜剽窃と引用をめぐる判決の盛り合わせ〜」という構成の展示ですが、職業柄やはり第3部のパロディ裁判が気になってしまいます。
日本の「パロディ裁判」
パロディ裁判は、著作権法を勉強したことがある方は必ず一度は聞いたことがあるはずの超有名事件です。
グラフィック・デザイナーであるマッド・アマノ氏が、写真家白川義員(よしかず)氏の既存作品を取り込んだ上で作品を制作した行為が、引用として適法になるか、白川氏の同一性保持権を侵害するかが大きな争点となりました(正確にいうと、他にも争点があるのですが事案の経過が複雑なため、ここでは、あえてざっくりとした紹介のみにしています。)。
1971年の一審の東京地裁から2度の最高裁判決を経て1987年に和解で終わるまでなんと16年を要した裁判です。
白川氏の作品は、スキーヤーが雪山の斜面を波状のシュプールを描きつつ滑降している場景を撮影した写真で、写真集で発表された後に保険会社AIUのカレンダーに使用されました。
白川義員氏の写真が使用されたAIUのカレンダー
出典:「パロディ、二重の声【日本の一九七〇年代前後左右】」図録220頁
これに対して、アマノ氏の作品は,白川氏の作品が使われたカレンダーの写真部分左側一部をトリミングし、白黒の写真にして、右上部にブリヂストンタイヤの広告写真から複製したスノータイヤを加えたものです。
アマノ氏は、自分の作品は巨大なタイヤによって自動車を表象し、スキーのシュプールを自動車のわだちにたとえ、写真の下のスキーヤーが自動車から逃れようとしている様子をあらわして、自動車による公害の現況を諷刺的に批判したものだと説明しました。たしかにスキーヤーがタイヤから逃げているように見えますね。
マッド・アマノ氏の作品
出典:「パロディ、二重の声【日本の一九七〇年代前後左右】」図録219頁
最高裁判決
それでは最高裁判決から紹介します。※1 最高裁は、雪の斜面をシュプールを描いて滑降してきた6名のスキーヤーの部分や山岳風景の部分といった白川氏の写真の本質的な特徴は、写真部分がアマノ氏の写真のなかに一体的に取り込み利用されている状態でもそれ自体を直接感得しうるものだから、アマノ氏による白川氏の写真の利用は、同一性保持権を侵害すると判示しています。
なお、最高裁は、アマノ氏の作品が、シュプールをタイヤの痕跡に見立て、シュプールの起点にあたる部分に巨大なスノータイヤを配することによって写真とタイヤとが相合して非現実的な世界を表現し、現実的な世界を表現する白川氏の写真とは別個の思想、感情を表現するに至っているものと見るとしても…といっていますので、アマノ氏の作品が全く別の思想、感情を表現したものであることは認めているようです。
ですが、元の写真をそのまま取り入れている以上、元の写真の表現形式はやはり感得されるのだから、いくら表現しようとした思想、感情が異なるといっても、アマノ氏の作品は元の白川氏の写真を改変したものだ、というわけです。
引用についても、最高裁は、「引用して利用する側の著作物と引用されて利用される著作物とを明瞭に区別して認識することができ、前者が主、後者が従の関係」にある必要があるとしました。そして、アマノ氏の写真に取り込み利用されている白川氏の写真は従たるものとして引用されているということはできないと認定しています。
東京ステーションギャラリーでは、パロディ裁判を報じる新聞記事も展示されていて、当時のこの事件に対する関心の高さや熱気が伝わってきました。特に反響が大きかったのはこの最高裁判決の前に出た一度目の東京高裁でアマノ氏が逆転したときの報道の見出しです。※2
- 「パロディにも『市民権』―正当な表現と認定」(朝日)
- 「合成写真は独立の著作物―アマノ氏の作品に逆転判決」(毎日)
- 「写真の著作権に新判例―他人の作品で作った”合成風刺”違法でない」(読売)
- 「アマノ氏逆転勝訴―『合成写真の方法は正当』」(日経)
- 「合成写真は”正当”―アマノ氏2審で逆転勝訴」(サンケイ)
- 「写真合成は独立作品―東京高裁マッド・アマノ氏逆転勝訴」(東京)
このように、当時もかなり大々的に報道されたようですが、この東京高裁の判決をあらためて読んでみるとなかなか面白い。少し長いですが、紹介したいと思います(適宜改行しています。)。
東京高裁判決
パロディは別個の著作物
「パロディ」という用語がこの東京高裁判決ではじめて登場します。※3
その表現形式は本件写真の主要部分たる雪山の景観がそのまま利用されているけれども、作品上、これに巨大なタイヤの映像を組合わせることによって、一挙に虚構の世界が出現し、そのため、本件写真に表現された思想、感情自体が風刺、揶揄の対象に転換されてしまっていることが看取される…が、それは、本件モンタージュ写真に組入れた自動車タイヤの映像の選択と配置(大きさ、位置関係等)によるものと認められ、この点にフォト・モンタージュとしての創作力を見出すことができるから、本件モンタージュ写真は本件写真のパロディというべきものであって、その素材に引用された本件写真から独立した控訴人(注:アマノ氏)自身の著作物であると認められるのが相当である。
「引用」として正当な範囲か
この点については美術評論家の中原佑介による証言など美術史の文脈も踏まえた主張がなされています。
1910年代の初期に西欧の画家ピカソ、ブラックらは画面に絵具を塗る代りに模様紙、新聞紙、切手、レッテル等を貼りつけるパピエ・コレという絵画の前衛的表現手法を始めたが、ダダイズム並びにシュールレアリスムの作家たちは、これを引継いでコラージュ…の技法に発展させた。
これに影響されて、ドイツの写真家ジョン・ハートフィールド及び風刺画家グロッスは1919年フォト・モンターシジュの技法を創り出した。もともと二枚以上の写真の貼りつけ、多重露出、二重焼付け等による合成写真術は写真史の初期から行なわれていたが、フォト・モンタージュ…は、他人の手になつた既成写真を素材とし、これにトリミング…のほか、…合成写真術を施したものをいくつか組合わせて一つの写真を構成し、コラージュ等が画面の絵画的統一を狙ったのとは逆に、相互には無関係な原写真による意識的な違和効果を狙い、これによって、看者に対し、原写真の本来のイメエジとはまったく異質の風刺的、比喩的あるいは象徴的な印象を与えようとするものである。
…以来、フォト・モンタージュは、世界的にひろまり、現在では、宣伝広告用にも多く使用されているが、特に、産業経済の急激な発達に伴う情報化時代を迎えて、過剰情報に対処すべき今日的な表現形式として、ポップアート、イラストレーション、前衛漫画等の分野とも交錯しながら美術写真家の一派によって用いられ、社会的にも美術上の表現形式として、それなりに受け容れられ、評価されるに至っている。…
また、…控訴人はグラフィック・デザイナーとして昭和42年ころからフォト・モンタージュの創作活動を続け、たまたまA・I・U社のカレンダーを入手して、美しい雪山の景観を対象とした本件写真に接し、かえって、これに演出された疑似ユートピア思想を感じたため、フォト・モンタージュの形式で本件写真を批判し、併せて自動車公害におびえる世相を風刺することを意図し、本件写真の一部を素材に利用するとともに、これに自動車公害を象徴する巨大なスノータイヤの写真を合成して、本件モンタージュ写真を作成したうえ、風刺を基調とする作品集「SOS」に掲載して発表したものであること、なお、控訴人は当時本件写真が誰の著作物であるか知らなかったことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。
以上の事実によると、控訴人は、本件写真を批判し、かつ、世相を風刺することを意図する本件モンタージュ写真を自己の著作物として作成する目的上、本件写真の一部の引用を必要としたものであることが明らかであると同時に、その引用の方法も、今日では美術上の表現形式として社会的にも受け容れられているフォト・モンタージュの技法に従い、客観的にも正当視される程度においてなされているということができるから、本件モンタージュ写真の作成は、他人の著作物のいわゆる「自由利用」(フェア・ユース)として、許諾さるべきものと考えられる。
同一性保持権は?
東京高裁は、次のようにいっています。
原著作物とこれに依存する二次的著作物との対立として考えるならば、後者が前者の枠内に止まるべきことは著作物の同一性保持権の当然の要請であって、原著作者の意に反する改変は許されないことになるであろうが、これと異なり、他人が自己の著作物において自己の思想、感情を自由に表現せんとして原著作物を利用する場合について考えるならば、その表現の自由が尊重されるべきことは憲法第21条第1項の規定の要請するところであるから、原著作物の他人による自由利用を許諾するため著作権の公共的限界を設けるについては、他人が自己の著作物中において原著作物を引用して、これに対して抱く思想、感情を自由な形式で表現することの犠牲において、原著作物の同一性保持権を保障すべき合理的根拠を見出すことはできない。
したがって、他人が自己の著作物に原著作物を引用する程度、態様は、自己の著作の目的からみて必要かつ妥当であれば足り、その結果、原著作物の一部が改変されるに至っても、原著作者において受認すべきものと考えるのが相当であるから、本件モンタージュ写真における本件写真の引用がその同一性保持権を侵害するとして正当の範囲を逸脱するという考え方は成立しない。
どうでしょうか。ざっくりというと、最高裁が表現上の特徴が感得できることを重視したのに対して、東京高裁では表現しようとした思想、感情が全く異なることを重視しています。東京高裁の判決は最高裁でひっくり返っていますので、現在の実務はもちろん最高裁の立場です。
ただ、東京高裁が引用の正当性の判断の際に、美術上の表現形式として社会に受け入れられている技法や程度であることを正面から論じて考慮している点は今日でも参考になると思いますが、それでも、あくまでも「引用」の枠の中でということになります。
アメリカの「パロディ裁判」といえばこれ
アメリカにもパロディ裁判があります。有名なのは、写真家アニー・リーボヴィッツ(→Artsy Annie Leibovitz page)が撮影し、雑誌ヴァニティ・フェアのカバーに使用された女優デミ・ムーアの写真に関するケースです。※4 このマガジンカバーは、「the ASME’s Top 40 Magazine Covers of the Last 40 Years」にも選出された大変有名な作品です。
アニー・リーボヴィッツ ヴァニティ・フェアのカバー
公開が予定されていた映画「裸の銃を持つ男 33 1/3:最後の侮辱」のため、パラマウント・ピクチャーズは、リーボヴィッツの写真をそのままコピーするのではなく、俳優のレスリー・ニールセンを使い、他の写真家に対して、ポーズを似せた妊婦女性のヌード写真の制作委託をしました。
リーボヴィッツの写真に細かな点まで似せるようにして、モデルは姿勢や手の位置がムーアと正確に一致するよう注意深くポーズをとっています。ムーアの手に現れた大きな指輪も同じ指にはめられており、ムーアにより近づくよう肌の調子や体の形をコンピュータによりデジタル処理しました。最後は、モデルの体の写真とニールセンの顔のあごと目がムーアのアングルとほぼ同じになるようにし、ただし、ムーアのシリアスな眼差しはニールセンのいたずら地味たあざけたものに取り替えた上で重ね合わせて完成です。
パラマウント・ピクチャーズの広告
出典:ウィキペディア
パラマウントは、原作品のパロディを意図したのであってフェア・ユースとして適法だと主張しました。
この裁判の結論は、フェア・ユースが認められて、パラマウントの勝利です。
具体的には、裁判所は「ニールセンのあざけた顔はシリアスなムーアの表情と顕著に対比されているから、広告は原作品のシリアスさ、気取った態度に対するコメントであると合理的に認識される」といい、また、「広告は、リーボヴィッツの写真を妊婦の体の美しさを誉め称えるものと解釈するものであり、このメッセージに対する不同意を表明するものと合理的に認識される」と指摘しています。
このように、アメリカでは、元の作品自体に対するコメント、批判であるパロディはフェア・ユースを成立させる方向で重視されます。
パロディを語る法枠組み
「パロディ、二重の声【日本の一九七〇年代前後左右】」図録でこのように記載されています(216頁)。
そもそも日本の著作権法は、パロディという屈折した表現形式を想定していない。ある表現の自由な二次的利用が法律のもとで許されるのは引用のみであり、「元ネタ」を全面的に、おおっぴらに使用しつつ別の意味を重ねようとするパロディという形式を扱うための言葉を、法は持ち合わせないのである。
まさにおっしゃるとおり。日本の著作権法ではパロディを語る言葉がないので、いわば「引用」に寄せて語らざるを得なかったのです。それはパロディ裁判が終わって30年経った今日でも同じ。
他方で、アメリカではパロディ作品のメッセージ性を考慮して判断をすることができます。それは「フェア・ユース」というパロディを語ることのできる法枠組みを持っているからです。
テクノロジーの進捗に柔軟に対応するというのがフェア・ユース導入の理由として語られることが比較的多いと思いますが、パロディに限らず、実は美術という著作権法が保護しようとする伝統的な表現形式においても、新しい言葉が求められているのかもしれません。
※1 最判昭和55年3月28日民集34巻3号244頁〔第一次上告審〕
※2 見出しについては、半田正夫「著作権をめぐる最近の判例について」ジュリスト618号(1976)109頁参照
※3 東京高判昭和51年5月19日判時815号20頁〔第一次控訴審〕
※4 Leibovitz v. Paramount Pictures Corp., 137 F.3d 109 (2d Cir. 1998)